2010年11月02日

2013:シリウス革命A

交信記録19901011―――-悟りとはシリウスの領域に入ること
(コ―― 著者  オ―― オコツト)



 仏教などでいう「悟り」とは一体何なのですか。

 最終的な意味では観察精神に入ることですが、とりあえずは覚醒を起こすということではないでしょうか。

 あなたがたが覚醒と呼ぶ状態とは何を意味するのですか。

 覚醒とはシリウス領域に入ること、つまり定質を形成していくことを意味します。
定質とは、宇宙におけるあらゆるレベルの対化を等化していくことを意味します。
定質が力、性質がその反映です。

 その「対化を等化する力」というのは、様々な二元性を一つに統合する認識力のようなものと考えてよいのですか。

 はい、そのような意味で結構です。シリウスに生み出されるすべての位置の対称性を把握していく認識力のようなものです。

 では、釈迦やイエスといった歴史上の聖人たちは、その意味において覚醒していたと考えてよいのでしょうか。

 しばらく、お待ち下さい。



――自らを高次元知性体と名乗る存在にしてみれば当然のことなのかもしれないが、オコツトは過去、現在、未来を問わず、地球上に存在するすべての人間の意識状態を走査(スキャン)することができた。そして、多くの人々にその記憶が共有された人物であればあるほど、そこから引き出されてくる情報量は増大した。



 ・・・・・釈迦やイエスは「人間の意識として覚醒を見た」ということであって、覚醒自体を起こしたとはいえません。

 つまり、悟ってはいないということですか。

 そうですね、「覚醒」と「悟り」を同じ意味を持つ言葉として捉えれば、そのようになるでしょう。人間の意識に覚醒が起きるためには、付帯質の力、つまり物質的な思考が必要とされます。その意味では、わたしたちが覚醒と呼んでいる出来事とは、最終構成において起こるものであり、反性質の状態で起こるものではありません。釈迦やイエスの時代においては、プレアデスの力がまだ十分ではなかったのです。そのために彼らはまだ覚醒という力に至ってはいなかったということでしょう。

 プレアデスの力が十分ではなかったとはどういう意味でしょうか。

 プレアデス的統制がまだ生まれていなかったということです。

 プレアデス的統制・・・・・?

 はい、「プレアデス的統制」とはあなたがたが科学と呼ぶものです。科学とはオリオンの力がプレアデスに反転して映し出された力なのです。

 プレアデスに反転して映し出されたオリオンの力・・・・・?

 物質の構造にはオリオンの精神構造が反転して表れているということです。

 ・・・・・? つまり、本当の悟りを開くためには、科学的な知識や思考が必要だという意味なのですか。

 もちろんです。プレアデスにある付帯質の力を用いなければ覚醒は起こり得ません。



僕にはオコツトのこの説明はとても新鮮に聞こえた。普通、多くの神秘家たちは悟りという状態は思考の停止をしなければ得られるものではないと説いてきた。ましてや、科学が持っている物質的な思考が悟りの役に立つなどとは誰一人として語ってはいない。しかし、オコツトの言い回しは全くそれらと反対だった。悟るためには何と物質的な知識が不可欠であり、そして、物質とは何かを求める思考が必要とされるというのだ。そして、釈迦やイエスの時代においてはこのような力が不足しており、とうてい悟りを得られるような状態ではなかったと――――。


 つまり、それは宗教者たちがよく口にする時の問題と関係があるのですか。人間が自らの存在の本質的意味に気付き、覚醒するためにはそれなりの時が必要であるといったような・・・・・。

 そうですね。覚醒期においてしか覚醒は起こらないという意味ではそういうことになります。

 ということは、つまり、有史以来、人類の誰一人として覚醒などしてはいないということになりますね。

 もちろん、そういうことになるでしょう。覚醒とは人間の個体性が意味を持たなくなることを言うのですから、人間の個体という次元で起こる作用ではありません。ですから、「誰かが覚醒を起こした」などといった表現自体が意味をなさないのです。個体の意識に覚醒が起これば、その力はすべての個体に伝播します。人間の意識の覚醒とは方向性だけではなく、力を持つものなのです。

 「方向性だけではなく力を持つ」とは、どういう意味なのですか。

 あなたがたの言葉で言えば、感覚的、直感的、達観的ということではなく、知性的、思考的、論理的・・・・・そのような意味です。他者にも一つの知的理解として伝達することが可能だということです。

 確かに、歴史上の聖人たちの説いた教えは、直感的で観念論的なのですが、多くの宗教では悟りとは本来がそのようなものであり、決して論理では語られないものとされています。つまり、それらは誤った考え方だとおっしゃるのですね。

 はい、誤っています。悟りは言語で表現することも可能ですし、知性で理解することもできます。ただ、あなたがたにはまだそのような言語や知性が生まれていないだけのことです。

 しかし、過去の聖人たちはなぜ「知性」ではなく「悟性」だというような言い方をしてきたのでしょう。

 知性とは何かが分からなかったからでしょう。

 知性が何か分からなかった・・・・・聖人たちがですか。

 はい。

こりゃあ、いい。まさに痛快だ。オコツトはブッダやイエスといった宗教上の聖人たちのことを何とも思ってない。全く無関心といった感じなのだ。

 では、科学がまだ存在していなかった過去の時代、歴史で語られている賢者や聖人たちの精神的な営みとはどのような意味を持っていたのでしょうか。

 プレアデスに生み出された人間の意識の進化の方向性を、安定化させるための調整作用として現れたものだと思います。タカヒマラの持った進化の方向性を安定化させるためのオリオンからの関与です。

 オリオンからの関与?・・・・・



覚醒
オコツトのいう覚醒とは、普通、宗教的に用いられる覚醒という言葉のニュアンスとは全く意味合いが違う。覚醒とはここにも明記してあるように、人間の意識が定質を作り出すことを意味しており、これは、意識を空間の幾何学として把握することの意である。

位置
シリウス言語で「位置」というときは、意識の位置のことを意味している。タマヒマラには観察子という概念によって様々な意識の次元が空間的構造として区画化されており、その相違によって、意識の位置を特定することができる。

プレアデス的統制
付帯質的統制と呼ぶこともある。人間の内面領域のみに宇宙を見てしまうこと。人間の内面とは物質世界に対応しているので、科学的世界観や唯物論的世界観などがその典型的なものとなる。

時の問題
宇宙には大きな時間周期があるとする説は多くの宗教に見出される。キリスト教では@現在の時間の後にA千年王国があり、B新しいエルサレムが出来るとされる。マニ教では世界は無始無終だが、@原初にはまだ明暗が分離しており、A中間期の現在は善悪が戦い、B終末期には善が勝って再び明暗が分離する。初期のゾロアスター教では、初めの三千年が@アフラ=マズダー(善)の時代、次の三千年がAアーリマン(悪)の時代、最後の三千年がB両者の戦いの時代で、善が勝つ。神智学では宇宙はマンバンタラ(顕現期)とプララヤ(壊滅期)を繰り返す。仏教では釈迦の入滅後、正法・像法・末法の三時があるとする。ちなみに現在は末法期にあたる。

覚醒期
タカヒマラが変換人の意識によって動いている時期のことをいう。覚醒期に対して、調整期というのがあり、こちらはタカヒマラが人間の意識によって動いている時期のことをいう。オコツトによれば、覚醒期と調整期は約6500年周期で入れ替わっている(第二章三節「アトランティスの残像」を参照のこと)。


(第1章1−2「ブッダを超えて――悟ったものなど一人もいない!」より後半)
※ロングセラーとなっている『2013:シリウス革命』残り僅少ですので、
ご興味持たれた方はお早めに!
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2010年10月28日

2013:シリウス革命@

シリウス革命.gif

◎2013:シリウス革命(1999年発行、半田広宣著)

今回は企画部の私が超おすすめの一冊をご紹介。
621頁の大作ですが、宇宙・チャネリング・プレアデス・シリウス・オリオン、こんなキーワードに敏感に反応される方には特におすすめできます。
私の下手な作品内容紹介よりも、作品からの部分抜粋引用を記載させていただきます。
以下は『2013:シリウス革命』より抜粋引用。

 本書『2013:シリウス革命』は、自らを<冥王星のオコツト>と名乗る意識存在と著者との間に交わされたチャネリング形式の対話録「シリウス・ファイル」の解説を目的として上梓された本です。この対話は1989年11月から1995年2月までの約7年間にわたって続けられました。(〜まえがきより)

                      【中  略】

 多くの悩める人間を未だに惹きつけて止まないのがブッダの説く「悟り」への道だ。入滅後2500年もの時を経た現代でもなお、この思想に傾倒する人は後をたたない。

 世の無常を直視し、さまざまな修行の遍歴の末に12の因縁の構造を解き、現世ではじめて悟りを開いたとされる釈迦ことゴータマ・シッダルータ。彼は宿業に満ちた人間の生から解脱し、覚者として生老病死を超越することが絶対的な幸福境涯への道であると説いた。

 原始仏教では、完全な悟りに達したものは、シッダルータの他にはいないと主張されていたが、後に幾人ものブッダの存在が認められ、彼らは上人や聖人として敬われるようになった。このように、多くの覚者たちが仏教史に名を連ねる原因となったのは、「すべての人間のうちに仏の種子があり、業(カルマ)の連鎖を断ち切ることができれば何人であろうが解脱できる」という釈迦自身の言葉にあった。

 これは西洋とは大きな違いだ。ユダヤ・キリスト教的な一神教の思想では唯一、絶対の神を信仰の対象とし、人間が神に近づくなどおそれ多い考えだとされていた。もし仏教徒たちが、キリスト教におけるイエスのように、釈迦自身を神格化し、絶対無二の覚者として位置づけたならば、おそらく、仏教もまたユダヤ教やキリスト教のように、一神教になるしかなかっただろう。そして、また、今ほどの宗派も生まれることはなかったに違いない。釈迦をひたすら崇拝する精神性を意識的に避けた仏教は、こうしてキリスト教とは全く違ったプロセスを通して世界宗教への道を歩んでいくことになったのだ。しかし、その反面、仏教にもある一つの絶対的な信仰が、根付いていたようにも思える。おそらく、それがなければ仏教は今日ほどの発展を見なかっただろう。では、その一つの絶対的な信仰とは何だったのか――――それは「確かに釈迦が宇宙的悟性に到達した」という信仰である。

 宇宙的悟性・・・・・つまり、「悟り」は、視覚や味覚と同様、他人になり代わって自己が体験することはできない。それは、あくまで自らの心の内に訪れる劇的な変容である(あろう)。この境地は、仏教のほとんどの宗派において、言葉では言い表すことができないものとされている。すなわち、それは「不立文字(ふりゅうもんじ)」「直観正観(じきたつしょうかん)」とされるのだ。真の仏界の境地とは決して、論理や知識で語れるものではない――――「悟り」に対するこういった知的態度は仏教徒の間では半ば暗黙の了解となっている。

 しかし、その反面、人間は言葉に生きる動物でもある。悟りの境地が言葉ではまったく説明し難いものとされながらも、釈迦本来の教えはその真髄とは裏腹に、無数の理論や教説によって粉飾されていった。その結果、日本だけをみても無数の宗派が濫立し、自らの教義の正統性を互いに主張し合いながら、とても仏教徒とは思えない様相を呈している。

 別にここで「悟り」の定義をはっきりとさせたいわけではないが、その曖昧さゆえに、「悟った」「解脱した」などと声高に叫ぶ似非覚者が僕らの周りに次々と現れ、教えを説いている光景は気味が悪いし、実に考えものだ。実際、かなわぬ夢であるものの、いっそのこと釈迦の霊でもイタコしてもらって、真の悟りの境地について説教してもらうというのもいいアイデアだが、成仏した釈迦がまさか霊界をさまよっている訳もないから、それは望むべくもない。

 悟りとは何か――――常に、禅問答のようなごまかしの考察しかされなかったこのテーマについてオコツトに質問してみたところ、彼は突拍子もない返答をよこしてきた。「人間には悟りなど存在しない」というのだ。

 「悟りなど存在していない」と言ってしまえば、確かに話は単純なのだが、しかし、彼の語り口から察するに、「悟り」そのものを否定したわけでもなさそうだ。「悟り」もまた彼らの宇宙観のなかでは文字として立てることができるものなのだろうか。相も変わらず異質性に満ちたオコツトの言説をとりあえず再現してみることにしよう。

ブッダ(B.C.563〜483年頃)
仏教の改組。俗名ゴータマ・シッダルータ。「仏陀」とは覚醒した者を示す尊称。現ネパール南部で、釈迦族の王の長男に生まれる。およそ29才のときに出家し、悟りを開いたのは35才頃とされる。

12の因縁(縁起)
人間の苦悩は、「無明―行―識―名色―六入―触―受―愛―取―有―生―老死」という12の必然的な連なりから逃れられないためであるという教え。苦の原因は初めの無明(根本的無知)であると説く。

イタコ
死者の霊を降ろす巫女。死者の生前を知っていたものは、イタコを通して死者と話すことができる。シャーマニズムでは自ら脱魂して異界に赴く方法と、自らの身体に他の霊を依り憑かせる方法とがあるが、イタコは後者にあたる。世界的に多くの巫女やイタコが存在しており、日本では恐山のイタコや、沖縄のユタが有名。

(第1章1−2「ブッダを超えて――悟ったものなど一人もいない!」より前半)

さて、これに対するオコツトとの交信記録は?

・・・次回『2013:シリウス革命』Aに続く
posted by たま出版 at 14:48 | Comment(0) | チャネリング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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